2018年09月07日

黒田官兵衛と明石掃部(かもん)、娘レジーナ、その末裔 明石元二郎  ―徒然にJ―

近世に入ってからの日本人の世界に向けた大航海は、その精神力において現代を凌ぐものではないかと思います。先に述べたペトロ・岐部・カスイ神父のアラビア砂漠を踏破してのローマへの道など驚くべきものがあります。今回は、前回に述べた黒田官兵衛の血縁である、明石掃部の娘・明石レジーナと、その末裔・明石元二郎・陸軍大佐について触れます。
 黒田官兵衛の項にて、嫡男・黒田長政の秋月領で弟・黒田ミゲル惣右衛門直之の下に縁戚のキリシタン武将・ジョアン明石掃部が居たことを述べました。関ヶ原で西軍・宇喜多秀家の参謀、後の大坂の陣で真田幸村らと共に大坂五人衆で著名なキリシタン武将です。備前にて出生したその末娘が明石レジーナです。大坂夏の陣では、城陥落の際に捕縛されますが、徳川家康の面前で掃部の娘であると気丈に振る舞ったとのことです。その為、家康は逆に小袖や銀子が与え、今後もキリシタンとして生涯正しい態度を守るよう申し渡したとイエズス会年報に記載があります。レジーナは、父譲りの熱心なキリシタンとして、ルイス・アルメイダの宣教医としての活躍話に憧れ、西洋医術の修得を希望したとの説もあります(著者・森本繁氏の下記参考図書)。史実あれば、幕末に来日したフォン・シーボルトの娘で、女流医師として活躍した「お稲」より250年前の、我が国初の西洋医術を修得した女流医師であったのかも知れません。
この明石一族の血は相当強烈であったようです。もう一人、その末裔となる人物がいます。キリシタンではありませんが、明治から大正時代に活躍した人物です。日露戦争の際にロシアにおいて独り諜報活動・革命扇動を行い、レーニンとも連絡を取り、小国・日本に勝利を導いた陸軍将校の明石元二郎大佐です。巨額(現在額で4百億円以上)の諜報活動資金を使いロシア革命を扇動したそうです。後の陸軍大将・第7代の台湾総督でもある、明石元二郎大佐が、この明石掃部(かもん)やレジーナの一族の末裔だということです。明石掃部の祖父が近衛家に歌道を指南した明石正風(宗和)の長男であり、次男の末裔が明石元二郎だそうです。因みに正風の長女は黒田官兵衛の生母であった為、その子孫は代々黒田家の寵臣で、明石元二郎も福岡藩士・明石助九郎の次男として福岡の大名町に生まれたそうです。これ等の脈絡に驚く次第です。
古からのこれ等の、気骨ある日本人の姿に勇気が湧いて来る気がいたします。

参考図書
1)H.チースリク著、高祖敏明監修、「秋月のキリシタン キリシタン研究第37輯」、教文館、
2000.9.12.
2)森本繁、「南蛮キリシタン女医 明石レジーナ」聖母文庫、聖母の騎士社、2012.8.25.
3)森本繁、「明石掃部」、学研M文庫、2006.12.26.
4)江宮隆之、「明石元二郎」、PHP研究所、2000.6.1.
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黒田官兵衛(如水)と創設者・井手一郎のロザリオ  ―徒然にI―

秀吉に天下を取らせた二人の軍師に竹中半兵衛と黒田官兵衛がいます。官兵衛が熱心なキリシタンであったことは余り知られていません。ルイス・フロイスらの記録により知ることが出来きます。筑前黒田藩の始祖・黒田如水シメオンです。先見の明があり苦難に負けぬ人であったそうです。
 彼は、1546年姫路城に生まれ、22歳で家督を譲られ官兵衛孝高と名乗りました。信長に離反した、親しい間柄の城主のもとに説得のため独り赴きますが、逆に1年余り土牢に閉じ込まれました。頭に瘡ができて髪が抜け落ち、以後片足が不自由になり頭巾を被った風貌となります。この際、信長は逆に彼が裏切ったと思い、嫡男・松寿丸(長政)の殺害を命じますが、秘かに匿い救ったのが半兵衛です。官兵衛は、備中高松城の水攻め等に軍師として献策し、本能寺の変の際は秀吉に天下を狙えと知恵を授けた事は有名です。信長や秀吉の軍師でありながら、卓越した才能故、秀吉や家康からは恐れられた様です。それ故、信長、秀吉、家康に仕えて多くの手柄を立てたにも関わらず官兵衛は十分に報いを受けない結果となります。高山右近や蒲生氏郷の導きによりキリシタン武将として知られていた為でもあります。
 官兵衛は、武将として抜群であったばかりでなく、1587年の伴天連追放令のときは信仰を守ることを憚りませんでした。秀吉は高山右近の硬い信仰に領地を没収しましたが、官兵衛のキリシタン武将としての能力を恐れ豊前12万石に封じました。また朝鮮の役にて強硬論を発し、秀吉を諌めて怒りに触れた後は家督を長政に譲り如水と号しました。関ヶ原では東軍として戦った嫡男・長政は筑前52万石に移封され、福岡城を築城し博多と共に福岡の繁栄の基礎をつくりました。如水は博多に修道院を建立させ、長政の秋月領で弟・黒田ミゲル惣右衛門直之の下に、縁戚のキリシタン武将・ジョアン明石掃部(かもん)(関ヶ原で西軍・宇喜多秀家の参謀、後の大坂の陣で真田幸村らと共に大坂五人衆)を客将として迎えました。惣右衛門と掃部の働きで、秋月では2つの教会や修道院があり、筑前・筑後・豊後から四、五千人ものキリシタンが集まったそうです。「片手で剣、片手で十字架をもって」戦闘した如水は、伏見の黒田藩邸での臨終の際に神父を呼ぶよう側近に頼みましたが、家康の禁教下では叶えられず、自分のロザリオを胸に亡くなったそうです。
 聖マリアの創設者・井手一郎の白衣のポケットには常にロザリオがありました。戦後の結核対策・高度経済成長期の救急医療対策や、その後の周産期・脳神経等の高度医療対策の先陣に立ち孤軍奮闘してきました。事業に全力を尽くした後、ロザリオを手に独り祈りました。地域の医療充実に粉骨し戦死したとも言えるのではないでしょうか。井手一郎の聖マリア史である「主の溢れる恩寵によりて」には、九大放射線科同門の先生の寄稿に「一郎先生は官兵衛そっくり.官兵衛はクリスチャンで,功に溺れず逆境にもめげず,いつも涼やかにしていた.井手一郎先生を髣髴とさせるではありませんか.」と記載があります。

参考文献:安藤英男編「黒田如水のすべて」新人物往来社、チースリク著「キリシタン史考」聖母の騎士社

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白衣姿の井手一郎(聖マリア病院・旧本館4F院長室前)

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鎖は綻び補修された井手一郎先生のロザリオ。 常に白衣のポケットに入ってました。
(聖マリア学院大学図書館内のOur St. Mary’s Heritage Galleryに展示)
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2018年08月31日

斯道院と聖マリア病院 -Misericordia 慈しみの心- 徒然にH

久留米市中心部の明治通りに久留米カトリック教会があります。パリ・外国宣教会のミカエル・ソーレ神父(1850-1917、1876年司祭に叙階)が久留米で宣教を始め、1908(明治41)年1月に「斯道院」という診療所をこの場所に設けました。
 今まさに、長崎の教会群がユネスコ世界遺産に登録され脚光を浴びていますが、その頃の話から始まります。幕末、欧米諸国との通商開始に伴い、外国人は長崎等数カ所での居留を認められたので、長崎にフランス寺と呼ばれた大浦天主堂が献堂されました。来日したベルナール・プチジャン神父一行は、26聖人の殉教の地である長崎でキリシタン末裔の発見を夢見ていました。今から150年前の明治の開国が迫る1865(慶応元)年、長崎でプチジャン神父が信徒発見に至ります。250年間もの禁教時代を通して信仰を守り通した浦上のキリシタンの末裔が大浦天主堂に現れたのです。世界中が驚きました。その2年後には、久留米の近郊の今村で第二の信徒発見があり、筑後地区にも多くのキリシタンの末裔が存在することが確認されました。久留米では、1587(天正15)年久留米城を築き居城としたシメオン・毛利秀(ひで)包(かね)は、妻・マセンシアが大友宗麟の七女であったこともあり、領内には7,000人のキリシタンがおり隆盛を極め、現・久留米市役所付近と他に1カ所に教会があったと言われています。1879(明治12)年に、コール神父が長崎から今村に初めて派遣され、翌年その後任としてソーレ神父が今村に着任しました。ソーレ神父は1879(明治12)年来日し、長崎の大浦天主堂に属し、プチジャン司教の命により久留米に赴任されたのです。1889(明治22)年の久留米市制に伴い、多くのキリシタンが今村から久留米へ移り、ソーレ神父も久留米の仮教会に定住しました。ソーレ神父は、今村から久留米に移住した貧しいキリシタンの再教育と病気治療の為に、有馬少膳の土地を購入して、その屋敷に設けた仮診療所で無料かごく僅かな治療費で治療にあたられました。(購入された土地は当時の金額で2,000円。旧有馬藩の御奏者番列1,200石取り有馬邦昌の中屋敷(別邸)跡で荒廃していました。大正年間まで、現・久留米カトリック教会から旧・井筒屋あたりまでの明治通りを有馬丁と呼んでいたのは、ここに有馬邦昌の中屋敷があったからだそうです。)ソーレ神父は普仏戦争(1870~71年)の時、看護卒(日本の衛生兵)として従軍され、相当の医学の知識と医療法を習得されており医療に心得があったのです。
 ソーレ神父は次なる対応を始められました。マリアの宣教者フランシスコ修道会のHPによると、ソーレ神父から診療所を閉鎖し、そこに医院を建て、その管理運営を引き受けて欲しいとの依頼があったそうです。同修道会は、ジョファイユの幼きイエズス修道会(久留米信愛他を運営)の手助けもあって熊本に最初の活動拠点を設け、アシジの聖フランシスコに倣いハンセン病者への活動を展開されていましたが、人吉や久留米にも活動を広げることになります。(その後同修道会は、札幌で天使病院や天使大学、東京で聖母病院や聖母大学を設置されることになります。現在沢山の看護大学がありますが、短期大学として看護の大学教育を始めたのは天使大学です。)1906(明治39)年1月、カナダ人Mアマビリス・ド・ゼズ、Mド・サン・リュクの2名、フランス人Mアニックの修道女と、準会員の日本人クララ畑原サノ及び志願者1名が熊本より久留米に到着されました。診療所と同じ敷地内の日本家屋に住み久留米修道院が創設されました。(同修道会では、「久留米の家」と呼んでいたそうです。この住まいは茶室や客間などを備えた日本古来の家屋でありながら素敵な洋式の家で小聖堂も作られていたそうです。)これにより、同修道会の運営による斯道院が始まりました。1908(明治41)年1月の事です。修道院にはアトリエ(授産施設)も開かれ、女性や障害者に料理、刺しゅう、裁縫、フランス語が教えられました。ここでは、一人の信者の医師と上述の四人のマリアの宣教者フランシスコ修道会の修道女が、信者のみならず一般市民の診療にもあたりました。その後この活動は大正時代まで続きます。1917(大正6)年ソーレ神父が帰天し、近所に病院が新築され、仮教会も本教会の建築に入ったので、時代の新しい波を受けて同修道会は、1921(大正10)年8月に斯道院の閉鎖に踏み切り、久留米修道院を閉鎖し、久留米での活動を閉じられました。
 この間、聖マリアの開設者である井手一郎の父・井手用蔵は、当初カトリックの伝道師を目指し長崎のマリア学院へ赴くも、出生地の今村の村長と大刀洗下高橋の地主の方が講を組み学費を作ってくれたお陰で、長崎医学専門学校に学ぶことになりました。1908(明治41)年同校卒業後すぐに久留米市立病院内科に勤務しました。斯道院が開設された同じ年です。この時井手用蔵は、長崎の浦上にルーツを持つ、内藤ナカと結婚しました。ナカは東京女子高等師範学校(現 御茶の水女子大)を卒業した職業婦人でしたので、県立久留米高等女学校(現 明善高等学校)に勤務することになりました。話は幕末に戻りますが、信徒発見の長崎の大浦天主堂では、プチジャン神父と同僚ロカーニュ神父により、1644(正保元)年の小西マンショ神父の殉教以来約220年間途絶えていた日本人の神父養成を行うべく、大浦天主堂の司祭館の屋根裏部屋で、その夢を実行に移しました。ラテン語学校という長崎神学校の創立ともなりました。内藤ナカの父・盛(旧姓・村上喜八)は、その邦人司祭養成に応じた、最初の神学生10人の内の1人でした。盛の母・リキと長兄・音松、及び甥・初太郎は、1867(慶応3)年の我国最後のキリシタン迫害である浦上四番崩れで、鳥取に流され殉教しています。同年、神学生の喜八は、プチジャン司教の迅速な気転により神学生10名一緒に、将来の大切な日本人神父の卵として、マレーシアのピナン神学校に退避させられました。1872(明治5)年に横浜(その後、神田教会)に帰国しますが、明治新政府下では国籍を失っていましたので内藤伯爵家に養子に入り内藤盛と改名しました。長崎神学校に戻るも、ロカーニュ司教の命を受け、私立学校の校長となり司祭職の道を断念した様です。この様に、長崎と今村の2つの信徒発見の地のキリシタン末裔同志の最初の婚姻事例が、開設者井手一郎の両親である用蔵とナカです。用蔵が勤務した久留米市民病院は、当時久留米から筑後一円のセンター病院で、後の九州医学専門学校(現久留米大学医学部)創設時にしばらく附属病院となりましたが、ここで用蔵は将来の開業に備えて腕を磨き、又育英資金の返済と、開業資金の備蓄に励んだようです。
 久留米教会の宣教100周年記念誌である「旅する久留米教会」には、次の様な記載があります。当時代表的な信者であった医師(内科医)井手用蔵の母親コメさんが、ソーレ神父様から乳腺炎の手術を受けたこと。また、糖尿病を患っていたソーレ神父の主治医であった井手用蔵は、香港の療養所に行くように勧め、神父様は承諾されたが、信者たちは納得せず、久留米に留まるよう請願し、旅立ちを中止させてしまったこと。数日後の1917(大正6)年12月20日に、信者たちが見守る中で帰天された(享年67歳)等の記載があります。また、「久留米人物誌」には、井手用蔵は、一家を挙げてのカトリック教の敬虔な信徒で、フランス人ミセル(ミカエル)・ソーレの久留米カトリック教会に属し、ソーレの教会経営の隠れた援助者となり、ソーレの死も看とった。斯道院の建物の一部は、用蔵の長男井手一郎経営の聖マリア病院に移されていると記載があります。上述の様な環境下、聖マリアの創設者・井手一郎の父である用蔵は、神の導きに従うが如く、マリアの宣教者フランシスコ修道会の運営する斯道院で、久留米市民病院に勤務する傍ら、ボランティアで診療を行っていた様です。1921(大正10)年、同会が熊本に引き上げる事となったので在職中の記念として木彫りのマリア像が贈られたそうです。
 現在、聖マリア学院大学図書館に併設するOur St. Mary’s Heritage Galleryに保存する、木彫りのマリア像は、上述の様な経緯で戦前の井手内科医院時代から保存されていたのです。「聖マリア病院25周年記念誌」には以下の記述があります。久留米大空襲の時も消失を免れ、昭和28年6月の大水害に際しても家財の大半が濁流に襲われた中にあって、偶然にも天井と鴨井の間にはさまり、荒れ果てた家を守るかの如き姿で、流失せずにいたのである。水が引いて自宅に帰った井手一郎はあたかも最初からそこに安置してあったような、欄間の聖マリア像を発見し、天の摂理にも似たある種の感動を禁じ得なかった。聖マリア病院の名称の由来にはこの出来事も深くかかわっているとの記述があります。
さてこの時期になると、私共の聖マリアでは、新たに「カトリックの愛の精神に基づく医療」という理念の下に、1952(昭和27)年夏から当時の国民病対策である結核療養所建築の計画が進められました。当時、経営上、新築はとても望めない為、第一病棟(初代本館)は久留米カトリック教会内にあった幼きイエズス会の修道院を、第2病棟は三潴郡城島小学校の古校舎を、そして給食洗濯施設として三井郡善道寺小学校の古校舎を譲り受け建築が始まりました。しかしながらこの直後、1953(昭和28)年6月に、豪雨により筑後川が決壊し、久留米地域は大水害に見舞われました。水害により工事は中断しましたが、混乱が収まった7月中旬より建設工事は再開され、9月に聖マリア病院は開設されました。この様に聖マリア病院の初代本館は、久留米カトリック教会内にあった幼きイエズス会の修道院の古材を使用したものです。幼きイエズス会が久留米に着任されたのは1930(昭和5)年で、現在の久留米カトリック教会の敷地内に聖心幼稚園を設置する為でありました。その10年程前の1921(大正10)年に、マリアの宣教者フランシスコ修道会は、同地で斯道院を閉じていますので、建物は引き継がれたのでしょう。1945(昭和20)年の久留米大空襲の際も、斯道院があった現在の久留米カトリック教会の場所の家屋は焼失を免れたとのことで、斯道院の建物は戦災での焼失を免れたと思われます。私共の聖マリア病院は、久留米カトリック教会や幼きイエズス会を介して、ソーレ神父やマリアの宣教者フランシスコ修道会時代から、斯道院という建物や、木彫りのマリア像を受け継ぐだけでなく、キリシタン時代からのMisericordiaの心を受け継ぐことが出来たのだと思います。
 随分前になりますが、本学の前身の短期大学の設立準備を始めた時、理事のお一人に、医師でシスターの川原ユキエ先生という方がいらっしゃいました。開設者の井手一郎がカトリックの愛の精神を理念とした看護の大学教育を始める為に人選された理事のメンバーのお一人です。当時は熊本にお住まいでしたが、マリアの宣教者フランシスコ修道会のシスターで、日本で最初に看護の大学教育を天使短期大学や聖母大学で始める際にご尽力された先生です。聖母短大時代のSr. 澤学長や、天使大学の学長を務められた近藤潤子学長(現・理事長)の先生でもあります。短期大学の設置準備を進めながら、開設者井手一郎と川原ユキエ先生が、深い信頼関係の下にお話しされていたのを覚えています。Sr. 澤学長や近藤潤子学長先生のお話によると、川原ユキエ先生は非常に厳しい先生だったとのことですが、私にとっては老齢もあり、豪快ながら優しい柔和なシスターでした。井手一郎とマリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター・川原ユキエ先生は、正に斯道院と聖マリア病院の関係の様に、長い歴史と一致したMisericordia―慈しみの心−に満たされていたに違いありません。



参考文献

・島弘志編集、創立50周年記念誌 1964−2014、日本カトリック医療施設協会.

・FMM日本管区の歩み−10、11、マリアの宣教者フランシスコ修道会日本管区HP、http://www.fmm.jp/?p=2151

・篠原正一著、久留米人物誌、久留米人物誌刊行委員会、昭和56年.

・三村邦明、牧山勝美監修、旅する久留米教会 宣教開始100周年、久留米カトリック教会発行、昭和53年.

・井手道雄編集、25周年記念誌 聖マリア病院のあゆみ、医療法人雪の聖母会 聖マリア病院、昭和53年.


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斯道院(左)と修道院(右の日本家屋」「久留米の家」と呼ばれていた)

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斯道院と隣接する日本家屋の修道院「久留米の家」

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堅信式の時のソーレ神父(中央・左側)

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久留米協会 初代主任司祭 ミカエル・ソーレ神父

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現在の久留米カトリック教会 1955年(昭和30)年建堂

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中央の少年が開設者・井手一郎の幼少時 少年の左:祖父・内藤盛(村上喜八) 右:祖母・サト 後方左:妹・井手澄江(福岡双葉学園校長、修道院長) 中央:父・井手用蔵 右:母・ナカ 

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開設者・井手一郎の父・井手用蔵と母・ナカ

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井手用蔵の母・ユメ 今村出身で旧姓は平田。同家からは平田善次、平田好の2名の神父を輩出している。

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開設者・井手一郎

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聖マリア病院第一病棟(初代本館) 幼きイエズス会修道院の古材を利用 旧・マリアの宣教者フランシスコ会の斯道院の一部と思われる。

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聖マリア病院第一病棟(初代本館):白い2階建家屋 第2病棟(左後方:城島小の古校舎) 給食洗濯施設(右側:善導寺小の古校舎)

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木彫りのマリア像 聖マリアの命名由来のマリア像です

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現在のマリア像(聖マリア病院、同ヘルスケアセンター、聖マリア学院大学、平和の聖母メゾンマリア)

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献堂時(1865元冶2年)の大浦天主堂 正式名称:日本26聖殉教者天主堂 26聖人殉教の地(長崎・西坂)に向けて建てられている

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ベルナール・プチジャン神父

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ロカ―ニュ司教
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