2019年01月17日

伊東マンショ・天正遣欧少年使節 ―徒然にL―

熊本の私立大学・平成音楽大学による「2018華麗なる音楽の祭典 in 福岡」が、福岡シンホニーホールで開催された。出田敬三学長先生の作曲による交響詩曲「伊東マンショ〜時を超える祈り〜」の本邦初演に感激した。
 大河ドラマ「西郷どん」の放映が終了したが、岩倉具視が登場していた。明治の元勲・岩倉を全権大使とした50名からなる遣欧使節団の一行は、明治4(1871)年、横浜港を後にし米国横断し諸都市を訪問の後、ヨーロッパ諸国を廻り2年後に日本へ戻っている。イタリアのベネチアを訪問した折、同地の古文書館に天正10(1582)年に大友宗麟、大村純忠、有馬晴信がローマ教皇の下に遣わした天正の少年使節一行による、ベネチア訪問の際の市民の歓迎に対する礼状の手紙が保存されていることを知った。近代国家としてスタートを望む一行にとって、遥か280年以上も前に日本より使節団が訪問していたことに驚嘆したとのことである。
天正の遣欧少年使節の筆頭正使である、伊東マンショは永禄12(1569)年頃、日向都於郡(宮崎県西都市)に生まれた。大友宗麟とは、姪の夫の妹の子という縁戚関係がある。伊東マンショは13歳の頃、伊東氏が島津の侵攻を受け、伊東氏の支城・綾城が落城。当時8歳であったマンショは豊後国に落ち延びる。同地で伴天連の保護を受け、その後有馬のセミナリオへ入学する。上述した歴史的事実として、イエズス会の巡察師バリニャーノ立案の天正少年使節としてローマへ。1586年4月12日にリスボアを出帆し帰国の途につく。1590年7月28日長崎に戻る。8年振りの故国であった。出国前と世は変わり、信長は本能寺の変で世を去り、秀吉の時代に入るも1587年に伴天連追放令が出されていた。1591年3月3日少年使節一行は、インド副王の使節としてのバリニャーノと共に、京都聚楽第にて関白秀吉に謁見。ヨーロッパを訪問してきた使節一行は歓待され、西洋楽器を奏でる一行に秀吉はリクエストを願い、特に学識にも優れた伊東マンショには、謁見の当日、そして再び翌日も仕官を求める程であった。同7月25日、使節の四人は、天草の修錬院にて文禄2(1593)年イエズス会入会。慶長6(1601)年原マルチノ、中浦ジュリアント共にマカオの修道院に移動(もう一方の正使であった千々石ミゲルは信仰を離れる)。3人は慶長13(1618)年、マカオにて神父に叙階される。1612年11月13日長崎にて病没。享年43歳。(1629年原マルチの、マカオで死去。1633年中浦ジュリアン、長崎で殉教。)
さて私も一昨年来、キリシタン時代の日本人神父様方のヨーロッパでの足跡を辿る機会があった際に、伊東マンショらの天正遣欧少年使節の道程の一部を訪ねることが出来た。以下にその記憶を辿りたい。1582年2月20日に、正使・伊東マンショ、千々石ミゲル、副使・原マルチノ、中浦ジュリアンの4人の遣欧少年使節は長崎を出帆。伊東マンショは大友宗麟の名代。マカオ、マラッカ、ゴアを経て、喜望峰を廻り、1584年8月11日にリスボンに上陸。リスボンではサン・ロケ教会の宿泊施設でヨーロッパ初めての夜を迎える。同教会で西欧の荘厳な教会堂に感嘆したであろう。この教会には、後にペトロ・岐部神父が日本に戻る直前に、キリシタン時代の最後の日本人神父となった小西マンショ(小西行長の孫)と再会した場所でもある。リスボン近郊には、使節が休養したシンドラの夏の離宮も残っている。スペインを経由し、1585年3月7日にフィレンツェへ。同22日にローマに到着。84歳の教皇グレゴリオ13世に謁見することになる。日本を離れ、3年以上の旅であった。ローマではイエズス会の本部であるジェズ教会、バチカン等を訪れる。ローマで最初の訪問先のイエズス会本部のジェス教会では、総長以下200人の会員が玄関に立って待っていたそうである。教皇グレゴリオ13世崩御後、新教皇シスト5世の戴冠式が聖ペトロ大聖堂で行われた。使節一行も列席した。余談であるが、1985年6月29日の、先の教皇ヨハネ・パウロ2世のミサとヘルベルト・フォン・カラヤン指揮による、モーツアルト・ミサ曲・戴冠式ミサが催行された。その際のDVDで見る様な臨場感と、大聖堂を埋め尽くした群衆といった最高の感動を受けたであろう。また、戴冠式の4日後には、聖ペトロ大聖堂からサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂への行幸の際にも参列が許された。前教皇から頂いた洋服で馬に乗り参列。その様子は、今もバチカン宮殿の壁画「教皇シスト5世のラテラノ教会行幸図」として残っている。ジェズ教会は、日本のキリシタンにとって神父(初期はイエズス会のみ)が所属するイエズス会の本部であり、その加護も受けたと思われる。グレゴリアン大学からも近い。バチカンでは聖ペトロ聖堂の改築完成前に訪れたかと考えられるが、その荘厳さには驚愕したことであろう。その30数年後には、アラビア砂漠を踏破して日本人で最初にエルサレムを訪問したペトロ・岐部神父と、日本人で最初に学士号を取得したミゲル・ミノエス神父は、共にグレゴリアン大学に通い、バチカンの完成なった聖ペテロ大聖堂で、二人はイグナチオ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式にも参列した。尚、ラテラノ教会は聖ペトロ大聖堂改修前には教皇座教会であり、ペトロ・岐部はこのラテラノ教会の香部屋の小祭壇で神父に叙階された(助祭叙階も同様。副助祭叙階はサンタ・マリア・マジョーレ教会。同教会には天正少年使節も訪問。)
各地で盛大な歓迎を受けた。ローマ市民権も授与されている。帰路は6月3日にローマを出発し、7日にアッシジへ。アッシジは聖フランシスコの生誕の地、活動の地である。尚、清貧の誓いを立てたフランシスコ会の創立は、上記のローマのラテラノ教会で教皇により認められた。26日にはヴェネツィアへ。7月25日にはミラノへ。9月9日にモンセラートに立ち寄る。モンセラートはスペインのカタルーニャ地方に在り、カトリック信者にとって古くからの修錬の場でもあった。近くには、イグナチオ・ロヨラが霊操を行ったマンレッサの洞窟がある。12月23日にはコインブラを訪れている。日本人最初の西欧留学生である薩摩のベルナルドの墓を訪問する目的であった。当地でコインブラ大学の学生と共にクリスマスを祝った。尚、ベルナルドはザビエルと共に京都まで同行し、ザビエル離日の際に一緒に出発し、日本に大学を造る目的でコインブラで学ぶ。ローマまで訪問するが、疲労の蓄積の為か黄疸を発症し、コインブラで病没する。ベルナルドの墓は、コインブラの新カテドラル(1598年に着工し100年後に完成。1772年に旧カテドラルから司教座が移された)の中の、左手小祭壇(イグナチオ・ロヨラの祭壇)脇の床に移動されている。
 先に述べた様に、天正の遣欧少年使節一行は、ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂へも、教皇シスト5世のラテラノ教会行幸の際訪れている。冒頭に記載した、交響詩曲「伊東マンショ〜時を超える祈り〜」の世界初演は昨年3月に、平成音楽大学の出田敬三学長先生の指揮により、この大聖堂で行われたそうである。アッシジの聖フランシスコも訪れ、彼を慕うフランシスコ・ザビエルも訪れた。ザビエルによりカトリックの教えを受けた、伊東マンショ等の遣欧少年使節も同大聖堂を訪れた。交響詩曲で歌われる文言は、伊東マンショの心の吐露であろう。キリシタンと呼ばれる人々が訪れたヨーロッパの各地を思い浮かべながら、改めて私自身、ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂訪問した時の感激を思い出した。天正少年遣欧使節に関しては、松田毅一氏の著作他、多くの書籍が出版されている。歴史漫画も出版され、斎藤たかを氏による「大航海時代」という歴史漫画に、この天正少年遣欧使節の項も設けられている程である。
 最後に、冒頭で触れた交響詩曲「伊東マンショ〜時を超える祈り〜」の序曲を平成音楽大学の出田敬三学長先生が作曲されたのは、2016年の4月に御船町周辺を震源として発生したあの熊本地震後であったとのこと。同大学の校舎は震源地に位置していたこともあり、壊滅的な被害を被ってしまった。その様な時期にこの序曲を創作され、交響詩曲を完成された先生の想いに敬服する次第です。天正遣欧少年使節が長崎を出発してから長期にわたる苦難の航海と地震後の状況を重ね合わされたと述懐されています。現在、新校舎再建中とのことです。心よりお祈り申し上げ、伊東マンショに関するこの文章を閉じたい。

参考文献

1)松田毅一、天正遣欧使節、朝文社、1991.
2)松田毅一、史譚天正遣欧使節、講談社、1977.
3)松田毅一、二つの使節、日本放送出版協会、昭和47年.
4)松田毅一、天正少年使節、角川新書、昭和40年.
5)松田翠鳳(松田毅一)、天正の少年使節、小峰書店、1971.
6)志岐隆重、ドキュメント 天正少年使節、長崎文献社、2010.
7)伊川健二、世界史のなかの天正遣欧使節、吉川弘文館、2017.
8)東木忠彦、伊東マンショのじゃがじゃが日記、サン出版、昭和58年.
9)松永伍一、虹色の馬車、偕成社、1988.
10)松永伍一、少年使節の旅 遥かなるローマ、女子パウロ会、1992.
11)松永伍一、天正の虹、講談社、昭和53年.
12)谷真介、ローマへいった少年使節、パウロ文庫、2016.
13)結城了吾監修、天正少年使節人物日本の歴史15、1988.
14)吉川景都、子供と十字架、角川書店、2013.
15)斎藤たかを、大航海時代、角川書店、2006.4
16)若桑みどり、天正少年使節と世界帝国 クアトロ・ラガッツィ(上)、(下)、集英社文庫、2008.
17)三浦哲郎、少年賛歌、文春文庫、1992.
18)ティアゴ・サルゲイロ、田中紅子訳、戦国の少年外交団秘話、南島原市、長崎文献社.
19)マンショを語る会、天正少年遣欧使節主席 伊東マンショその生涯、鉱脈社、2012.
20)五野井隆史他監修、旅する長崎学2 キリシタン文化U 長崎発ローマ行き、天正の旅、長崎文献社、2007.
21)浜口賢治、西海の聖者 小説・中浦ジュリアン、葦書房、1998.
22)木村嵐、マルガリータ、文春文庫、2013.
23)青山敦夫、天正少年使節 千々石ミゲル、朝文社、2007.
24xxx)青山敦夫、活版印刷人 ドラードの生涯 天正遣欧使節の活版印刷、印刷学会出版部、H13.

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京都大学図書館蔵の天正遣欧少年使節の図:
天正遣欧少年使節とメスキータ神父(右上の人物が筆頭正使の伊東マンショ)

日本出発時、わずか13歳前後の4人の少年は、8年半の歳月を経て、21、22歳の青年となって日本に戻って来た。出航時、長崎・波佐見出身の副使・原マルチのみ両親共に健在であったが、他の宮崎・都於郡出身の正使・伊東マンショ、長崎・千々石出身の千々石ミゲル、及び長崎・中浦出身の中浦ジュリアンは母のみが居た。さぞかし母親は辛かったであろう。

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宣教師メスキータの肖像画
巡察師バリニャーノがゴアの管区長を命ぜられ当地に留まったので、ラテン語教師として同行していたメスキータ神父がローマまで同行。使節と共に日本に帰国したメスキータ神父は、長崎のコレジオ(神学院)の院長となる。その後、長崎のキリシタンのミゼリコルディアの組による組織されたボランティア病院である、サンチャゴ病院の院長も務める。(尚、本学では大分県竹田市に現存する、1612年銘記のサンチャゴ病院の鐘を模し作成し、本学においてミゼリコルディアの鐘として本学図書館棟に設置・継承している。)また、後年家康のキリシタン禁教令により、高山右近らが長崎より追放される時は、幕府との仲介役を申し出る。この宣教師及びキリシタンの追放に際しては、別の浜の小屋に独り置き去りにされ、1614年独り淋しく亡くなった。その数日後、高山右近らの乗る追放の船はマカオとマニラに向かった。マカオに向かった船には、神父を志すペトロ岐部、ミゲル・ミノエス、小西マンショ等も乗船していた。

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伊東マンショの肖像画:2005(平成17)年、ローマ教皇の甥の邸宅で発見される。

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伊東マンショの肖像画の油絵
2014年にイタリア北部在住の個人所蔵となっていた、それまで未確認の伊東マンショ像がトリブルツィオ財団によって発見された。その後同財団に所蔵が移り、2016年5月17日-7月10日、東京国立博物館で日本初公開された。なおこの絵はドメニコ・ティントレット(ティントレットの子息)画と推測されている。(以上ネット記載文章より)

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ベレンの搭:1584年8月、天正少年使節、ヨーロッパへの入口のポルトガル・リスボンに到着。リスボン入口のテージョ川河口にこのベレンの搭はある。

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サン・ロケ教会:天正遣欧少年使節一行は上陸後、同教会の宿泊施設に滞在。また同教会は後年、岐部神父が小西マンショと再会した場所でもある。

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シントラ宮殿:リスボン近郊にあるポルトガル国王の夏の宮殿。天正遣欧少年使節一行は1584年8月11日にリスボンに上陸。その後、このシントラ宮殿で長い船旅の疲れを癒した。

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シントラ宮殿の内部

伊東9.pngイエズス会本部・ジェス教会:天正少年使節はローマに入り、最初にこのジェス教会を訪れた。

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聖ペトロ大聖堂:バチカン。天正の少年使節は、教皇グレゴリオ13世に謁見。新教皇シスト5世の戴冠式にも参列。

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サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂:天正少年使節は、新教皇シスト5世の聖ペトロ大聖堂からこのラテラノ大聖堂への行幸の際にも参列。古くは、アッシジのフランシスコが教皇よりフランシスコ会を認められた場所。後年、ペトロ岐部が司祭叙階されたのは同教会の香部屋の小祭壇である。

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サンタ・マリア・マジョーレ大聖堂:雪の聖母聖堂(聖マリア病院の聖堂と同じ名称。尚、雪の聖母会は聖マリア病院の設置法人)である。ローマ教皇直轄の教会。天正少年遣欧使節一行も訪問した。後年、ペトロ岐部がアラビア砂漠を踏破後、エルサレムからローマに入り、まづ最初にこの教会の香部屋の小祭壇で副助祭に叙階される。

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アッシジ 聖フランシスコ大聖堂:天正少年使節もこのアッシジを訪問。この聖堂を訪れている。我が国にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの父も、アッシジのフランシスコを慕い、息子にフランシスコと名付けた。

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モンセラートの山々の遠景:スペインカタルーニャ地方。天正少年使節も巡礼した。

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モンセラートの山頂と修道院

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マンレサの洞窟教会:洞窟の真上に立つ。

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マンレサの洞窟:モンセラートの巡礼の途中に、イグナチオ・デ・ロヨラが霊操を行った。

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イグナチオ・デ・ロヨラが剣で岩に彫った十字架:マンレサの洞窟内にある。

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コインブラ大学の鉄の門:天正の少年使節一行もこの門を通ったであろう。旧大学の入り口の門。

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コインブラ大学のラテン語回廊:天正少年使節の面々もラテン語で会話したであろう。

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コインブラの新カテドラル:天正少年使節がコインブラに立ち寄った目的は、日本人最初の留学生ベルナルドの墓を訪問する為。現在はこの新カテドラルの中に墓は移されている。
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2018年11月26日

日本人伊留満ロレンソ了斎  ―徒然にK―

神戸を訪れた際に神戸市立博物館に立ち寄ったことがある。狩野内膳筆の「南蛮屏風」を見る為である。長崎に入港した南蛮船を出迎える宣教師達を描いた屏風の右端に、宣教師達に混じって右手に杖、左手にロザリオを手にした和服姿の晩年の彼がいる。琵琶法師・ロレンソ了斎(修道生活以前の日本名は不詳)である。1526年に肥前の白石(肥前には白石という地名は3ケ所あり、平戸本島の北部の白石)の漁村で生まれたほぼ全盲の彼は、琵琶法師として流浪中に1551年に山口にてフランシスコ・ザビエルと邂逅し、ロレンソという名前を与えられ洗礼を授かる。1560年、ザビエルと共に来日したトルレス神父の命により、京においてヴィレラ神父と共に、ザビエルが果たせなかった将軍・足利義満との謁見後、畿内での布教許可を得た。またその後、フロイスと共に織田信長と面会する。信長の共感を得、キリシタンの保護者として獲得することになる。一介の、それも当時蔑まされていた職業である琵琶法師の出であったが、当時の我が国の頂点にいる人々の心を動かしたのである。
 古くは海老澤有道著の「京畿切支丹史話」や、最近では日本26聖人記念館の館長であった結城了吾(パチェコ・ディエゴ)神父の著による「-平戸の琵琶法師-ロレンソ了斎」によりロレンソ・了斎の全容を知ることが出来るが、残念ながら共に絶版である。同じく、結城了吾・著の「イルマン キリシタン時代のイエズス会修道士」では、神から照らされた盲人の琵琶法師として一章を割いて生年より晩年までの多岐に亘る活躍の記載がある。また、少年少女文庫としての古本ではあるが、片岡弥吉・著の「日本キリシタン物語」は永井隆博士による珍しい、さし絵があり、コンパクトな文章に纏められている。これ等の本の底本であろう、史実を述べたルイス・フロイスによる、膨大な量の「日本史」を読み進めると、ロレンソ了斎に関する記述が幾箇所も残っている。ロレンソは日本人最初のイエズス会修道士でもあった。1555年、日本の大学に入ってキリストを知らせるというザビエルの夢を叶える為、比叡山に赴き、延暦寺の仏僧達と、宗論を闘わした。京都・妙覚寺での、将軍足利義輝との謁見の際は雨天であった。背の高いヴィレラのスータン(修道服)を借りた小柄な彼は、目が不自由な為に服の裾が泥まみれであるのも判らず、広間を通ったときは畳を泥で汚しながら進んだとある。これを許した将軍も優しい。将軍への手土産は砂時計一つだったそうです。将軍は、ロレンソの真理に即した話に感銘し、布教を許可し、教会への税金の免除等も行ったそうです。また、豊後府内(大分市)では、ドチリナ・キリシタン(Doctrina Christã:近世初期にイエズス会により作成されたカトリック教会の教理本)を編集したとされる。その後1566年、同地に最初の西洋式病院を開設したイエズス会修道士・アルメイダと共に、下の国(九州)の島原や大村、五島にて布教している。トルレス神父の指示の下、Viva Roda(生ける車輪)として精力的に活動し、医師として患者と心を通じさせる天性を持つアルメイダとの二人三脚は、人々の心を捕えたようである。アルメイダ自身、ロレンソの、話す時のゆかしさと雄弁さを称賛している。アルメイダもさぞかし心強かったであろう。この間、宣教師達の通訳を務めたり、日本語の指導を行ったりもした。琵琶法師であった故の万民を惹きつける語りと、天性とも言える理路整然とした卓越した思考能力に因るものと思われる。1569年、フロイスとロレンソが織田信長に謁見した際に重大事件が起こった。信長の面前で、魂の不滅について信長の側近であった日乗上人とロレンソが問答したが、激情した日乗が信長の刀を取ってロレンソを切ろうとした。その場にいた数人の客人が後方から日乗を取り押さえ、刀をその手からとりあげた。その間、フロイスとロレンソは不動であったそうである。後の太閤・秀吉もその中の一人で、後にロレンソ了斎と親交を結ぶことになる。以後、信長はフロイスやロレンソを歓待し、ロレンソには親愛の情を示したそうである。この後は、京都にてオルガンティーノと共に活躍する。都に活躍したロレンソ了斎は、琵琶法師としての素養を持つ豊かな弁舌の使い手であったばかりでなく、琵琶法師としての生来の孤独と清貧の生活は修道士として基本となった。既に修道士になって20年程であり、非常に鋭い理性と明白な天性の知識の持ち主で、市中の人々や多くの武人他も虜にしたようである。キリシタンの堺の豪商・日比屋了珪や小西立佐、その子の武将・小西行長、武将・高山図書頭や右近親子達は直接的に彼が導いた。内藤如安等多くのキリシタン武将も含まれる。秀吉とは、上述の信長謁見の際から顔見知りであったが、後年、秀吉が「もし、神父たちがたくさんの妻を持つことを許すなら、自分もキリシタンになるであろうと」いったことに対し、ロレンソも平然として「もし、閣下が信者になったなら私はそれを許します。それは閣下が地獄に行っても、たくさんの人々が信者になるために救われるからです。」と答えるなど長話を冗談の様にする親しい中だったそうである。秀吉の九州征伐前にも、コエリヨと共に大坂城に秀吉と謁見する等したが、1587年伴天連追放令以降は、畿内より他の宣教師と共に安土セミナリオの生徒と共に平戸へ向かい長崎に移動した。フロイスらが見守る中、1592年長崎の岬の教会のコレジヨ(神学院)で息をひきとった(齢66)。
 キリシタンの世において、その布教戦略上、高貴な人々をターゲットにした様子がフロイスの記述から読み取れる。布教する宣教師にしてもザビエル(スペイン・バスクのザビエル城)や後年のバリニャーノを初め、多くの宣教師が高貴な出である。キリシタン時代には遠くヨーロッパまでその名を知られたイルマン・ロレンソではあるが、現在の我々が知る日本の歴史の表舞台には出ておらず、琵琶法師出身のロレンソ了斎の存在を知る日本人は今日少ない。フロイスでさえ、「外見上は甚だ醜い容貌で、片眼は盲目で、他方もほとんど見えなかった。しかも、貧しく粗末な装いで、杖を手にして、それに導かれていた」と記載している。しかしながら、誰よりも立派な性質と、鋭い知恵と、その上にまた真理に対する強いあこがれを神様から恵まれていた。知恵が深く、神の事を話す時雄弁であった。学問も満足に受けることが出来なかった筈なのに・・・。フロイスは「彼は人並み優れた知識と才能と恵まれた記憶力の持ち主で、大いなる霊感と熱意をもって説教し、非常に豊富な言葉を自由に操り、それらの言葉はいとも愛嬌があり、明快、かつ思慮に富んでいたので、彼を聞くモノはすべて共感した。」と絶賛している。ロレンソ了斎について彼を知る宣教師たちが何度も繰り返して言った言葉がある。「視力が余りなかったが、神から照らされている。」我々も、小さい歩みでもよいから神から照らされる者となりたいものである。




参考文献
・海老澤有道、「京畿切支丹史話」、東京堂、昭和17年.
・結城了吾、「ロレンソ了斎-平戸の琵琶法師-」長崎人物叢書001、長崎文献社、2005.
・ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳、完訳フロイス日本史1〜12、中公文庫、2000.
・結城了吾、「イルマン キリシタン時代のイエズス会修道士」、日本二十六聖人記念館、2001.
・片岡弥吉・著、永井隆・絵「日本キリシタン物語」少年少女文庫、中央出版社、昭和33.
・宮脇白夜、「現代語訳 ドチリナ・キリシタン[キリシタンの教え]」、聖母の騎士社、2007.

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イルマン・ロレンソ了斎
町田曲江筆・日本二十六聖人記念館蔵
「視力が余りなかったが、神から照らされている。」
彼を知る宣教師たちが繰り返した言葉を描いている


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結城了吾神父によりロレンソ了斎とされる人物
「ルイス・フロ椅子の文章に繰り返されるヒントによって、南蛮屏風に描かれている人物は、ロレンソであると見分けがつくようになった。」(結城了吾、「ロレンソ了斎-平戸の琵琶法師-」P147~8 あとがき)
南蛮屏風(六曲一双・右隻の一部拡大)狩野内膳筆・神戸市立博物館蔵
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2018年09月07日

黒田官兵衛と明石掃部(かもん)、娘レジーナ、その末裔 明石元二郎  ―徒然にJ―

近世に入ってからの日本人の世界に向けた大航海は、その精神力において現代を凌ぐものではないかと思います。先に述べたペトロ・岐部・カスイ神父のアラビア砂漠を踏破してのローマへの道など驚くべきものがあります。今回は、前回に述べた黒田官兵衛の血縁である、明石掃部の娘・明石レジーナと、その末裔・明石元二郎・陸軍大佐について触れます。
 黒田官兵衛の項にて、嫡男・黒田長政の秋月領で弟・黒田ミゲル惣右衛門直之の下に縁戚のキリシタン武将・ジョアン明石掃部が居たことを述べました。関ヶ原で西軍・宇喜多秀家の参謀、後の大坂の陣で真田幸村らと共に大坂五人衆で著名なキリシタン武将です。備前にて出生したその末娘が明石レジーナです。大坂夏の陣では、城陥落の際に捕縛されますが、徳川家康の面前で掃部の娘であると気丈に振る舞ったとのことです。その為、家康は逆に小袖や銀子が与え、今後もキリシタンとして生涯正しい態度を守るよう申し渡したとイエズス会年報に記載があります。レジーナは、父譲りの熱心なキリシタンとして、ルイス・アルメイダの宣教医としての活躍話に憧れ、西洋医術の修得を希望したとの説もあります(著者・森本繁氏の下記参考図書)。史実あれば、幕末に来日したフォン・シーボルトの娘で、女流医師として活躍した「お稲」より250年前の、我が国初の西洋医術を修得した女流医師であったのかも知れません。
この明石一族の血は相当強烈であったようです。もう一人、その末裔となる人物がいます。キリシタンではありませんが、明治から大正時代に活躍した人物です。日露戦争の際にロシアにおいて独り諜報活動・革命扇動を行い、レーニンとも連絡を取り、小国・日本に勝利を導いた陸軍将校の明石元二郎大佐です。巨額(現在額で4百億円以上)の諜報活動資金を使いロシア革命を扇動したそうです。後の陸軍大将・第7代の台湾総督でもある、明石元二郎大佐が、この明石掃部(かもん)やレジーナの一族の末裔だということです。明石掃部の祖父が近衛家に歌道を指南した明石正風(宗和)の長男であり、次男の末裔が明石元二郎だそうです。因みに正風の長女は黒田官兵衛の生母であった為、その子孫は代々黒田家の寵臣で、明石元二郎も福岡藩士・明石助九郎の次男として福岡の大名町に生まれたそうです。これ等の脈絡に驚く次第です。
古からのこれ等の、気骨ある日本人の姿に勇気が湧いて来る気がいたします。

参考図書
1)H.チースリク著、高祖敏明監修、「秋月のキリシタン キリシタン研究第37輯」、教文館、
2000.9.12.
2)森本繁、「南蛮キリシタン女医 明石レジーナ」聖母文庫、聖母の騎士社、2012.8.25.
3)森本繁、「明石掃部」、学研M文庫、2006.12.26.
4)江宮隆之、「明石元二郎」、PHP研究所、2000.6.1.
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